少年奴隷・バイバルス |
●モンゴル帝国とバイバルス●
バイバルスはキプチャク人、クマン族のバラリー氏の出身である。キプチャク人はトルコ民族に属し、遊牧民であるがゆえに騎馬に通じ、戦士として優秀であった。バイバルスの誕生年は諸説あるが、1228年頃といわれている。チンギスハンがこの世を去った翌年である。
キプチャク人は元々、シベリアのイルティシ川、オビ川 の流域に住んでいたと考えられている。十一世紀のはじめごろ、クマン族は他の部族から離れて、南ロシアに拠点をおき、強力な遊牧勢力となっていた。しかし、1220年代、ホラズム王国を滅ぼしさらに西進を続けるモンゴル帝国により追い散らされてしまうことになる。この時、モンゴル軍を率いていたのはチンギスハンの長子ジュチである。この出来事は十三世紀の世界情勢の中でも述べている。
「モンゴル帝国は更に西方へと進撃する。チンギスの時代においてはモンゴル帝国はホラズム以西のイスラム諸王朝には進撃せずカスピ海(地図中のセルジューク・トルコの文字の上にある湖)の北に広がるキプチャク平原に進出し、キプチャク平原の遊牧民をおいちらす。その後、チンギスは病に倒れ、遠征軍は一旦引き上げることになる。」
ここにでてくるキプチャク平原の遊牧民こそ、クマン族である、もちろん、クマン族だけではないのだが。このジュチによる遠征では、キプチャク平原は蹂躙はされたものの、モンゴルにより制圧されはしなかった。バイバルスが誕生したのは丁度このころである。彼の両親はモンゴルから逃げ惑っていた。
バイバルスがヴォルガ河のほとりで、十歳になり、一人前の騎手となった頃、今度はジュチの息子・バトゥがキプチャク平原へ進出してきたのだ。このバトゥの征西によりキプチャク平原はモンゴルに制圧され、後にバトゥが自分の国家・キプチャク=ハン国をこの地に樹立することになる。バトゥの遠征はモンゴル皇帝・オゴタイ=ハンが崩御するまで続き、ヨーロッパ諸国までも震撼させることになる。
キプチャク人はバトゥの進撃に対して西へと逃げたが、クマン族はモンゴルに臣従していた遊牧民族のブルガル人の甘言にかかって大量の捕虜をだした。ブルガル人は当時、奴隷貿易で富をなしており、捕虜となったクマン族はブルガル人によって中東の奴隷市場へと売りにだされた。
●バイバルス中東へ行く●
バイバルスはブルガル人の手から中東の奴隷商人の手にわたり、奴隷として中東世界へ連れてこられた。バイバルス、十四歳頃、1242年である。この年はバトゥがワールシュタットの戦いで大勝を収め、オゴタイ=ハンが崩御した翌年である。
バイバルスは長身で目が青く、肌が黒かった。トルコ人としては珍しい体格と肌の色をしていたようだ。彼は中東の奴隷市場を転々としたがなかなか買い手がつかない。なぜ買い手がつかなかったか? 当時の中東の奴隷市場はモンゴルの襲撃によって奴隷となった人々があふれていた、さらに彼の肌が褐色であったこと(色白でないと奴隷として価値がないということか?)、また、右目が白内障にかかっていたといった理由がある。
バイバルスはトルコからシリアのアレッポ、ダマスカスへと買い手のつかぬまま連れて行かれた。ダマスカスでは銀細工師に買い取られたが、片目しか見えないことが災いして、すぐに返品させられてしまった。彼は友人と奴隷商人とともに、アレッポとダマスカスの中間にある街、ハマへとやってきた。
ハマで彼についに買い手がついた。アイユーブ朝スルタン・サーリフのアミール(軍の司令官)で、アイダキーン・ブンドクターリーという男に友人とともに買い取られた。ブンドクターリーとは「弓兵」という意味である。彼はスルタンの怒りにふれハマに左遷されていたが、スルタンがクマン族の奴隷を求めていることを知っていたのでバイバルスらを買い取ったのである。彼はブンドクターリーの名の示すとおり、弓の専門家であるからバイバルスとその友は素質ありと認められたのだろう。後にブンドクターリーはサーリフから許され、アイユーブ朝の国都であり、中東の経済・文化の中心地であるエジプトへといくことになる。
●バフリー・マムルークの一員に●
エジプトへ帰ったアイダキーンは再び、スルタン・サーリフの怒りに触れ、私財を没収されてしまう。もちろん、彼の所有する奴隷であったバイバルスもサーリフのものになった。バイバルスはその立派な体格がスルタンの目にとまり、バイバルスはクマン族によって編成され、サーリフが手塩にかけてつくりあげている、サーリフの私兵集団、バフリー・マムルークの一員となり、スルタンの衣装係りに抜擢された。1246年。バイバルス十八歳のときである。
バイバルスはその体格と人並み外れた馬術、弓術、そして将となるにふさわしい気質を備えていた。奴隷として売り手のつかないまま市場をさまよっていた頃には考えられないことであった。
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