マムルーク朝の成立 |
●アイユーブ朝の最期●
1250年4月。第六回十字軍はアイユーブ朝をあと一歩のところまで追い詰めるものの、アイユーブ朝スルタン・サーリフの子飼のマムルーク部隊・バフリー・マムルークと、サーリフの息子、トゥーラーンシャーの活躍によって撃破された。
トゥーラーンシャーは十字軍との交戦がはじまってしばらくした後に亡くなった、サーリフの後を継ぎ、アイユーブ朝スルタンとなった。トゥーラーンシャーはサーリフの前妻の息子で俊才のほまれが高かったという。トゥーラーンシャーはアイユーブ朝の最北端・ディヤバクル地方の防衛にあたっていた。「物語・中東の歴史」の著者・牟田口氏はトゥラーンシャーが辺境守備についていた理由を「サーリフが息子の(優れた)能力に不安を覚えた」もしくは「シャジャル(サーリフの後妻)の差し金と述べているが、私はトゥラーンシャーの能力を父サーリフがかっていて、敢えて北辺防衛につかせたのではないかと思う。秦の始皇帝も次期皇帝にしようとしていたと考えられる長男を匈奴と国境を接する北辺の防衛の任を与えている。
それはともかく、辺境に長く駐留していたトゥラーンシャーはエジプトには人脈を持っていなかった。そこで新スルタンになった彼は辺境守備時代の部下やダマスカスで懐柔した文官たちを政権の重要なポストにおき、トゥラーンシャー体性をつくりあげようとした。そして、サーリフが自分の兄のつくったマムルーク部隊を危険視し、総入れ替えを行ったように、トゥラーンシャーもバフリー・マムルーク部隊を危険視し、戦勝の立役者となったバフリー・マムルークのアミール(司令官)を軽んじ、さらに解任・投獄も行い、バフリー・マムルーク自体も二次的な作戦地域へとおくられた。
バフリー・マムルークはトゥラーンシャーの不当な扱いに憤慨し、同じくトゥラーンシャーから疎まれていたと思われるシャジャルと密談する。バフリー・マムルークにとってシャジャルは主人の妻にあたるので、忠誠を誓える存在だったのか、それとも、同じトルコ人の奴隷出身だったからか?
バフリー・マムルークは五月二日の朝、ファリスクールにてトゥーラーンシャーの暗殺を決行する。バイバルスがまず一刀をあびせ逃げ惑い追い詰められたトゥーラーンシャーにバフリー。マムルークの実力者・アクターイがとどめの一撃をはなったのである。そしてシャジャルがバフリー・マムルークの手によりスルタンへと推戴される。イスラム史上初めての女性スルタンの誕生である。バフリー・マムルークが自らスルタンとなったのでなく、シャジャルを推戴したのは、やはり王位継承の正当性を証明するためと、スルタン位をめぐっての内輪もめを防ぐためだったのだろう。
女性スルタン誕生・・・この出来事はイスラム諸国へ衝撃を与え、アッバース朝最後のカリフとなるムスターシムは認可状(スルタンの正当性を証明するもの)のかわりに「スルタンにふさわしい男性がいないのなら、こちらから適任者を一人おくろうか」という皮肉めいた文章をおくっている。シャジャルはかつてムスターシムのハーレムの女性だったので、ムスターシムはシャジャルがスルタンになることを快く思うはずはなかったのである。
またダマスカスのクルド人や、シリアのアイユーブ朝の王族達が次々と反旗を翻すこととなった。
シャジャルはルイ九世およびその将兵がダミエッタの返還と五十万リーブルを支払うかわりに身柄の解放を求めてきたので、自らの名でもってルイ九世らを釈放した。この後、諸外国からの風当たりが強いことを認識した彼女はサーリフのマムルークの長老ともいえるアイバクと結婚しスルタンの位をアイバクに譲った。七月のことである。シャジャルの治世はわずか八十日にすぎなかった。
バフリー・マムルーク達はバフリー・マムルークでないアイバクがスルタンになったことに不満をいだき、アイユーブ朝のスルタンこそ正当だとさわぎたてたが、これは建前で、真意は権力をバフリー・マムルークのものにするところにあった。そもそもアイバクをスルタンに推挙したのはバフリー・マムルーク達であった。
バフリー・マムルークがアイバクをスルタンに選んだのは温厚で御しやすそうだからという理由である。特にアクターイなどはアイバクをないがしろにして好き勝手なことを、やっていた。ちなみにマムルーク朝においては「温厚で御しやすそう」という理由でスルタンにされた者が何名かいる。おうおうにして実権はマムルークの実力者が握っている。「スルタン」の位というのは暗殺の危険や責任が問われたりするので、むしろスルタンを隠れ蓑にして、その裏で専横を極めるという傾向がしばしばみられる。
●マムルーク政権対イスラム世界●
当時、アイユーブ朝をのっとりエジプトのマムルーク政権に対し、シリアのアイユーブ朝王族達は、協力してエジプトを奪回しようと考えていた。
アイバクはアイユーブ王族との緊張緩和を考え、六歳の幼児であるアシュラフ・ムーサーというアイユーブ朝の王子をスルタンとし、自分とアシュラフの二人のスルタンによって統治するという形式をとった。しかし、アイユーブ朝の王族達はアイバクの手にはのらなかった。いうまでもなく、実権はアイバクの手にあったからである。
アレッポとダマスカスの王となったナセル・ユースフは、アッバース朝のカリフよりスルタンの位を与えられた。彼はアイバク政権に不満を抱いている一部のバフリー・マムルークが1250年9月にカラクの太守ウマル・アルアイユービーをエジプトの王位に推挙した機会を捉えて進撃を開始した。アイバクはこれにたいして抗戦を決意した。
アイバクはまずアイユーブ朝支持派の部将を捕らえ、エジプトはカリフのムスターシムに従属しているという声明を発表する。
そして、当時、アッカに駐留していたルイ九世に接近するため、エジプトのフランス十字軍捕虜を釈放し、一方ではダミエッタの城砦を破壊して十字軍が使用できないようにした。
ナセル・ユースフの軍はバフリー・マムルークを率いるアクターイによってガザで破れ、1251年2月にはエジプトのサーリヒィヤでもアイバクに撃破され、ナセル・ユースフは逃走できたものの、多くのアイユーブ朝の王族達が捕虜となってしまった。
アイバクはシリアに進撃を考えていた。当時、モンゴル軍が再びイスラム世界に対して進撃をはじめてきたので、カリフ・ムスターシムはイスラム世界の一致団結を図ることとなり、ダマスクスのナセル・ユースフとアイバクを講和に導かせた。この講和によってアイユーブ朝の王族達はマムルーク政権を正式な国家として認めたこととなる。マムルーク朝はエジプトとエルサレムを含むヨルダン河以西、ナーブルス以南の地を領土として確定した。
マムルーク朝が正当な王朝であることを認められたので、アイバクはアイユーブ朝の体裁を保つためにたてたスルタン、アシュラフ・ムーサーを捕らえて幽閉した。マムルーク朝の誕生である。
外の脅威は去った。しかし、命令を守らないバフリー・マムルークがエジプトで横暴を働くので、市民のマムルークへの感情はよくなかった。そんな折、エジプトにすむベトウイン達がマムルークによる支配に対して反乱をおこす。ベトウイン達にとってマムルークは「よそ者の奴隷」でしかない。「よそ者の奴隷」が自分達の主人であることなど許せないのだ。
アイバクはベトウインの反乱の鎮圧をアクターイに命令し、1253年6月、ブルバイス付近で鎮圧させた。
アイバクがアイユーブ朝王族との戦いや、ベトウインとの戦いでバフリー・マムルークとその指導者、アクターイの力を借りたため、バフリー・マムルークは増長しエジプトで略奪などを行い横暴を極め、勢力を強化していった。
特にアクターイはスルタンでもないのに、スルタンの特権を行使し、アイユーブ朝王族の娘を妻にするなど、スルタンをないがしろにする行動をとっていた。
アイバクは当初は内外の危機に対応するためにアクターイの力を借りたので、アクターイの機嫌をとらざるを得なかったが、危機がさるとアクターイ、ひいてはバフリー・マムルークをを処分することを真剣に考えるようになった。
そこでアイバクは四年がかりでつくりあげた自分のマムルーク軍団の部将であるクトズ達に協力を求めた。まず、アイバクはローダ島にあるバフリー・マムルークの兵営をとりこわし、彼らを王宮の兵営にうつした後、バフリー・マムルークに急襲をかける。これによりアクターイはうちとられてしまった。しかし、アクターイの配下のバイバルス、カラウーン、サンカルらは密かに会合してカイロを脱出。アイバクは彼らの脱出を防ごうとカイロの城門を閉じるもバイバルスらは脱出に成功する。
これよりモンゴル来襲までの数年間、バイバルスを首領とするバフリー・マムルークはシリアをさまようことになる。
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