バフリー・マムルーク朝のスルタン |
シャジャル・アッドゥッル
第一代スルタン(在位・1250年)
マムルーク朝、初代スルタンにしてイスラム史上初となる女性スルタン。
元はアッバース朝カリフの後宮にいた、トルコ人、もしくはアルメニア人といわれる女奴隷であった。しかし、アイユーブ朝スルタン、アッサリーフの寵愛をうけてアッサーリフの妃となり、王子を産んで奴隷の身分より解放された。
1249年のルイ十四世率いる十字軍との戦いの最中にアッサーリフは病死するが、アッサーリフの死によって軍の統制が乱れることを恐れシャジャルはアッサーリフの死を隠し、毎日、決まった時間に食事と薬を運び込ませ、スルタンの署名のある命令書を捏造(言い方が悪いが)し、アイユーブ朝軍を指揮しつづけた。
その後、アッサーリフの遺言にしたがい実権は義子にあたるトゥーラーン・シャーが握ることになったが、トゥ-ラーン・シャーはジャジャルやアッサーリフのマムルークに好意を示さなかった。そのためトゥ-ラーン・シャーはバフリー・マムルークによって暗殺されてしまう。この陰謀にはシャジャルも加担していた。
トゥーラーン・シャーを暗殺したバフリー・マムルーク達はシャジャルをスルタンへと担ぎ上げる。これは、アイユーブ朝の王族達の反抗を防ぎ(シャジャルがアイユーブ朝に縁が深い者のため)、スルタン位を狙うバフリー・マムルークの部将の野望を防ぐための処置であり、実権はバフリー・マムルークが握っていた。
この女王の最初の仕事は、トゥーラーン・シャーとルイ九世との間で結ばれた協定に従い十字軍をエジプトより撤退させることであった。
しかしながら、この女王の即位は波紋を呼び、ダマスカスのクルド人や、シリアのアイユーブ朝の王族達が次々と反旗を翻すことになる。
また、アッバース朝のカリフはかつて自分の女奴隷だったシャジャルがスルタンになったことに好意を抱かず、スルタンのしての承認を行なわず、内も外も苦境に立たされることになる。
この苦境を乗り切るため、1250年7月、シャジャルはマムルークの総司令官・アイバクと結婚する。そして、シャジャルはスルタンの位を夫のアイバクに譲ることになる。彼女の治世は80日であった。
アイバクは後に政略結婚で、モスルの太守バドル・アッディーン・ルウルウの娘を娶るのだが、これがシャジャルの嫉妬心に火をつけてしまった。シャジャルは国政から身をひいたものの、アイバクを操縦して国政を左右させようという野望を抱いていたのだ。
シャジャルは1257年4月、五人の屈強な奴隷に命令してアイバクを浴室で刺殺させた。
しかし、シャジャルのこの暗殺の陰謀は明るみにでてしまい、彼女の無実の主張もむなしく、アイバクのマムルークにとらわれてしまう。そして、シャジャルとの結婚に伴い、アイバクとわかれさせられたアイバクの元妻にひきわたされる。シャジャルへの恨みに燃えるアイバクの元妻は女奴隷に命じてシャジャルを木靴で叩き殺させた(靴で叩かれるというのはかなり屈辱的なことである)。そして、シャジャルの遺骸は下着のままモカッタムの城砦の櫓から放り投げられてしまった。
イスラム初の女性スルタンの死としてはあまりに無残であるが、アイバクの暗殺といい、マムルーク朝の性格を端的に物語っているかのような最後である。
ちなみに、シャジャル・アッドゥッルとは「真珠の木」の意味。歴史家は彼女を「気難しいがしっかりした女性」と評している。アッサーリフの死後や彼女の治世をみるに、彼女の才能は十分にいかされていたといえるだろう。
アイバク・アットルコマーニー
第二代スルタン(在位・1250年〜1257年)
マムルーク朝・第二代スルタン。サーリフのマムルークだがバフリー・マムルーク出身ではない。肥満体で温厚な性格。
トゥーラーン・シャーの暗殺計画にも参加しており、トゥーラーンシャーからシャジャルへ王位が移るとエジプトの総司令官となった。
1250年7月。シャジャルと結婚し、シャジャルからスルタン位を貰い受ける。彼がスルタンに選ばれたわけは。温厚であったがために、バフリー・マムルーク達が操作しやすいと判断したためであった。バフリー・マムルーク達はバフリー・マムルークでないアイバクがスルタンになったことに不満をいだき、アイユーブ朝のスルタンこそ正当だとさわぎたてたが、これは建前で、真意は権力をバフリー・マムルークのものにするところにあった。
当時、アイユーブ朝をのっとりエジプトのマムルーク政権に対し、シリアのアイユーブ朝王族達は、協力してエジプトを奪回しようと考えていた。
アイバクはアイユーブ王族との緊張緩和を考え、六歳の幼児であるアシュラフ・ムーサーというアイユーブ朝の王子をスルタンとし、自分とアシュラフの二人のスルタンによって統治するという形式をとった。しかし、アイユーブ朝の王族達はアイバクの手にはのらなかった。いうまでもなく、実権はアイバクの手にあったからである。
アレッポとダマスカスの王となったナセル・ユースフは、アイバク政権に不満を抱いている一部のバフリー・マムルークが1250年9月にカラクの太守ウマル・アルアイユービーをエジプトの王位に推挙した機会を捉えて進撃を開始した。アイバクはこれにたいして抗戦を決意した。
アイバクはまずアイユーブ朝支持派の部将を捕らえ、エジプトはカリフのムスターシムに従属しているという声明を発表する。
そして、当時、アッカに駐留していたルイ九世に接近するため、エジプトのフランス十字軍捕虜を釈放し、一方ではダミエッタの城砦を破壊して十字軍が使用できないようにした。
ナセル・ユースフの軍はアイバクの部将でバフリー・マムルークであるアクターイによってガザで破れ、1251年2月にはエジプトのサーリヒィヤでもアイバクに撃破され、ナセル・ユースフは逃走できたものの、多くのアイユーブ朝の王族達が捕虜となってしまった。
アイバクはシリアに進撃を考えていたが、蒙古軍が再びイスラム世界に対して進撃をはじめてきたので、カリフ、ムスターシムはイスラム世界の一致団結を図ることとなり、ダマスクスのナセル・ユースフとアイバクを講和に導かせた。この講和によってアイユーブ朝の王族達はマムルーク政権を正式な国家として認めたこととなる。マムルーク朝はエジプトとエルサレムを含むヨルダン河以西、ナーブルス以南の地を領土として確定した。
そして、アイバクはアイユーブ朝の体裁を保つためにたてたスルタン、アシュラフ・ムーサーを捕らえて幽閉した。
外の脅威は去ったものの命令を守らないバフリー・マムルークがエジプトで横暴を働くので、市民のマムルークへの感情はよくなかった。そんな折、エジプトにすむベトウイン達がマムルークによる支配に対して反乱をおこす。
アイバクはベトウインの反乱の鎮圧をアクターイに命令し、1253年6月、ブルバイス付近で鎮圧させた。
アイバクがアイユーブ朝王族との戦いや、ベトウインとの戦いでバフリー・マムルークとその指導者、アクターイの力を借りたため、バフリー・マムルークは増長しエジプトで略奪などを行い横暴を極め、勢力を強化していった。
特にアクターイはスルタンの特権を行使し、アイユーブ朝の娘を妻にするなど、スルタンをないがしろにする行動をとっていた。
アイバクは当初は内外の危機に対応するためにアイバクの力を借り、アクターイの機嫌をとらざるを得なかったが、危機がさるとアクターイ、ひいてはバフリー・マムルークをを処分することを真剣に考えるようになった。
そしてアイバクは自分のマムルーク部将であるクトズ達に協力を求めアクターイを始末した。しかし、アクターイ配下のバイバルス、カラウーン、サンカルらは密かに会合してカイロを脱出。アイバクは彼らの脱出を防ごうとカイロの城門を閉じるもバイバルスらは脱出に成功する。
脱出したバイバルスらはシリアのアイユーブ朝王族達にマムルーク朝攻撃を進言したので、アイバクは防衛体制を整えるのに三年を費やした。さらに、アッバース朝カリフに臣従の意を示すために使者をおくり官位を求め、十字軍とも休戦協定を改定し、モスルの太守バドル・アッディーン・ルウルウの娘を妻にし、バフリー・マムルークの反抗に備えた。
しかし、政略結婚でモスルの太守、バドル・アッディーン・ルウルウの娘を妻にしたことが、妻であり前スルタンであったジャジャルの嫉妬心に火をつけてしまい、アイバクは浴室で彼女の放った五人の奴隷に暗殺されてしまうこととなった。
アイバクは温厚で操縦しやすい人物とバフリー・マムルークは考えていたが、案外、決断力と行動力に優れていたように思える。
アリー
第三代スルタン(在位・1257年〜1259年)
アイバクの息子。十五歳で即位。アイバクとシャジャルが相次いで死亡したため、暫定的にたてられたスルタン。マムルーク朝には世襲制の概念が存在せず、第一の実力者があとを継ぐのだが、継承者の決定がなされるまでは、前のスルタンの子供がスルタン位につく。
実権はアイバク最古参のマムルークであるクトズが握っており、在位から二年後、モンゴルがイスラム世界に侵攻してきた機に、クトズによって退位させられ、母と弟ともに幽閉される。
サイフ・アッディーン・クトズ
第四代スルタン(在位・1259年〜1260年)
アイバク所有のマムルークの中でも最古参のマムルーク。アイバクがバフリー・マムルークの実力者、アクターイを葬る際にもアイバクに協力した。
1257年。アイバクがジャジャルによって暗殺され、アイバクの息子アリーがスルタンになると執権兼総司令官となり、実権を半ば握ることになる。
かつてアクターイの配下であり、シリアに逃亡したバフリー・マムルーク達が、モンゴル軍の侵攻に際し、イスラム世界の統一をはかるため、カラクの太守、ウマル・アルアイユービーにエジプト進撃を進言し、ウマルはエジプトに侵攻するが、クトズはこれを退ける。
そして、この機をとらえてクトズはエジプトで会議をひらき、アリーのような若年スルタンではモンゴルの侵攻という危機に対応できないと力説し、自らスルタンとなる。部将の中には不満の声もあったが、あくまでこれはモンゴル侵攻という危機に対応するためであると述べ、危機がさったあとに、スルタンを選出すればよいと述べた。
シリアに逃亡したバフリー・マムルークの首領格のバイバルスはシリアの太守達がモンゴル軍に対して弱腰なのに失望し、ガザにでむいてクトズにイスラム世界の兵力を結集し、モンゴル軍にあたるべきだとのべ、クトズはこれに賛成し、シリアに亡命していたバフリー・マムルーク達をうけいれ、好意をもって接して領地と官職を与えて優遇した。
全マムルーク軍の団結に成功したクトズのもとに、シリア各地を制圧しガザに到達したモンゴル軍から降伏を示唆する書簡が送られてきたが、クトズはこの脅しに屈せず四人に使者を斬首し、ザウィーラ門にさらした。
そして、兵士を動員してサーリヒィヤに出陣した。ちょうどこのころ、モンゴル皇帝のモンケが死亡したため、シリアへ侵攻してきたフラグはモンゴルへと帰っていき、モンゴル軍の指揮はキトブガにゆだねられた。
マムルーク軍の先鋒は素早い攻撃でガザにいたモンゴル軍の先遣隊を敵の増援部隊が来る前に撃破。また、クトズはアッカの中立保証をとりつけることに成功していたため、キトブガが十字軍と力をあわせ反マムルーク同盟を構築しようとしていたのを防ぐことができた。
クトズはナザレよりダマスカスにむけて進撃する方針をたて、モンゴル軍の進出を知ると主力をアイン・ジャルート周辺の林や森に伏兵とさせ、バイバルスに先鋒隊を率いて前進させた。
モンゴル軍とマムルーク軍は1260年9月3日。アイン・ジャルートで会戦した。乱戦となるとクトズは甲冑を脱ぎ捨て「くたばれ」と叫んでモンゴル軍に突入し、散々に敵をうちまかした。この戦いはモンゴル軍一万に対しマムルーク軍は十二万だったといわれている。モンゴル軍の主力はフラグがモンゴルにかえるさいに連れて行ってしまっていたのだ。
この勝利によってマムルーク朝の名声は高まり、イスラム世界の盟主的存在へと押し上げることとなった。逆にアイユーブ朝の権威は地に落ち、シリアはカラクを除いて全てがマムルーク朝の支配下にはいった。マムルーク政権は正当な政権として認められたのである。
クトズはモンゴル軍を追撃してダマスカスにはいるとアイユーブ朝との関係にかかわりなく、自分に忠誠を誓うシリアの部将達の地位を保証した。ただし、バニヤスの太守でアイユーブ朝王族のアルマリク・アッサイードのみは、モンゴル軍に協力して戦ったので斬首とした。
クトズはアイン・ジャルートの戦いの前にバフリー・マムルークの指導者であるバイバルスをアレッポの太守とする約束をかわしていた。バイバルスをエジプトから遠いシリアの北辺のアレッポの太守とすることは、スルタン位争奪のライバル(モンゴルの脅威は去ったのでクトズが以前いったように新たにスルタンを選ぶ必要があった)を隔離させ、なおかつモンゴルの最侵攻の際にもバイバルスが最前線で防衛にあたってくれるなどのメリットがあったが、クトズはバイバルスをアレッポの太守にするとバイバルスが遠隔地で勢力の拡大を図り、自分に対抗する存在となることを恐れ、約束を履行しなかった。
これは、バフリー・マムルークの怒りを買ってしまうことなる。
1260年10月。エジプトへ凱旋する途中、サーリヒィヤ付近で狩りを楽しむクトズに、バイバルスはモンゴル軍捕虜の中から一人の美女をもらいたいと申し出た。クトズがこれを了承すると、謝意を示すためにクトズの手に接吻するふりをして、クトズがその手を差しのべると、バイバルスはその手を固く握って離さず剣を握って従臣とともに瞬時にしてクトズは刺殺されてしまう。
アイバクと同じようにバフリー・マムルークの力を借りて危機を脱したクトズは、アイバク同様バフリー・マムルークの力をおそれた。しかし、アイバクのときと違ったのはバフリー・マムルークの希望をある程度叶えてやらなかったことと、一度痛い目にあっているバフリー・マムルークが先手をうったところである。
バイバルス・アルブンドカターリー
第五代スルタン(在位・1260年〜1277年)
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バラカ
第六代スルタン(在位・1277年〜1279年)
第五代スルタン、バイバルスの息子。バイバルスは生前よりバラカを自分の次のスルタンにしたいと思っており、1262年には部将達にバラカへの忠誠を誓わせた。しかし、これはあくまでバイバルスの威光によるものであることをバイバルスは知っていたので1275年ごろ、バフリー・マムルークの同僚にして自分につぐ実力者であるカラウーンの娘との婚約を取り決めた。しかし、バイバルスの心配はおさまらず、死期の近づいたことを悟ったバイバルスはバラカに
「お前はまだ若年だし部将達はお前をあなどるだろう。侮っていることを耳にしたら、真偽を確かめて直ちにその部将を誅殺しなさい。誰にも相談せず独断で処置しなさい。さもないとお前はスルタン位を失うことになるだろう」
と遺言した。
1277年。バラカはバイバルスのあとを継ぎスルタンとなる。年齢は十八歳に達しており政務をとることは十分にできる年齢であった。しかし、遊び好きでわがままであり、ねい臣を近づけ、父の功臣を遠ざけたので部将達の不満をかうことになる。
1279年。義父であるカラウーンをはじめ、サンカル、サンジャルといった有力なマムルークの手によってスルタン位からおろされる。バラカはカラクの太守となることを望み、彼の望みどうりカラクの太守とされた。
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