マムルークの起源とアッバース朝 |
マムルークが歴史上にはじめて登場するのは、アッバース朝(750年〜1258年)の八代目カリフ・アルムオタスィムの時である。
アッバース朝はそもそもウマイヤ朝を打倒して打ちたてられた政権であるが、アッバース朝はウマイヤ朝から政権を奪取する際にペルシア人や、シーア派イスラム教徒の軍事的協力と援助をうけたので、政権を樹立したあともカリフの権限を、ペルシア人やシーア派イスラム教徒がおさえつけることが多かった。
そして、六代目カリフ、アルアミーンと、その兄アルマアムーンとの抗争が勃発。アルマアムーンはペルシア人の援助をうけ七代目カリフとなり、ペルシア人じゃカリフに対し強い発言権をもつようになった。
ペルシア人の勢力を恐れた八代カリフ、アルムオタスィムは、ペルシア人の干渉を防ぎ、自己の権力を守るために、大金を投じてサマルカンドやフェルガーナ方面からトルコ人奴隷を多数買い入れた。そして、トルコ人の奴隷を訓練し、自己の親衛隊とした。
これがマムルークのはじまりである。
しかし、マムルークは街にでては横暴を働くので住民から苦情が続出。そのためカリフはバグダードの北、130キロのところに軍営都市サマッラーを建設し、マムルークとともに移り住んだ。
マムルークはもともとカリフの権限を守るための武力であったが、次第にその勢力を拡大していき、しまいには権力はカリフを上回るようになり、カリフが気にくわないと退位させる、場合によっては殺害したり目をくりぬいたりといった暴虐を行なうようになった。カリフはマムルークの手の平で踊らされる存在となっていった。
その結果、カリフの権威は軽視されるようになっていき、アッバース朝の地方総督・太守・知事はカリフ同様マムルークを養成して自己の軍事力強化を図り、カリフから独立を企てていくようになる。
例えば義父の代理としてエジプトの太守となったイブン・トゥールーンは、アッバース朝内の反乱に乗じて、エジプト王として独立しトゥ-ルーン朝を築いた。イブン・トウールーンは独立の際、兵力を増強するために数万に上るマムルークを購入した。
アッバース朝は力を失ったものの、イスラム教の権威者であるカリフがしきる王朝であるので、イスラム諸国はアッバース朝を滅ぼすようなことはしなかった。アッバース朝は1258年、三十七代カリフのアルムスタアシィムのときに東方よりやってきた、フラグ率いる非イスラム教徒であるモンゴル軍によって滅ぼされることになる。
カリフが自らの権力を保持するためにつくったマムルークが、逆にカリフの権力を奪い取り、アッバース朝の分裂を招き、アッバース朝崩壊の遠因をつくることになってしまった。また、皮肉にもアッバース朝を滅ぼしたのはマムルークと同じトルコ人であるモンゴル帝国であった。アッバース朝はトルコ人によって支えられ、衰退し、滅ぼされたのだ・・・。
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